東北ではたくさんの人との縁ができました。末永さんとの出会いは、2011年5月、場所は避難所となっていた石巻市の小学校の体育館でした。当時、石巻市には、仮設住宅が完成するまでの生活の場として、公民館や学校の体育館など、たくさんの避難所がありました。僕はその中のいくつかを、写真家として撮影のボランティアをさせていただけないかと、お願いをして回っていました。
津波によって地域全部が被災してしまった地域は、そこに住んでいた人々が他の街に流出し、その地域のコミュニティーは崩壊してしまうかもしれない。ならば、みんなが集まっている今だからこそ、せめて写真の中だけでもそのコミュニティーを残せないだろうか?加えて、流されてしまった家族写真を新たに撮って、家族の新しい門出の記念とできないだろうか?
そうして各所の代表の方に挨拶をし、主旨を説明していきましたが、被災してからまだ2ヶ月、とても写真などという雰囲気ではありません。
そして、いくつか回っているうちに辿り着いた避難所で、法務省の方を通じて、地域のリーダーとして末永さんが紹介されました。
僕は主旨を説明します。
「面白そうだな。いいんじゃね。」
そのひと言でした。
僕は、一旦東京に帰り、1週間後、機材を持って石巻に戻り、体育館に住み込んでの撮影が始まりました。ステージの袖の用具倉庫に住処をもらい、仮設の写真館も開設しました。
この体育館でのお話は、また別の機会で話したいと思いますが、僕が一緒に生活をしている間、石巻の漁師さんたちは、漁業復活に向け、いち早く動き出していました。
沿岸部の陸地は、まだまだ瓦礫の山。海は一見綺麗に見えるけれど、海底には陸と同じように瓦礫が山を作っています。漁師さん達がまず始めたのは、港の清掃でした。ダイバーさんたちと協力して、残った自分たちの船を使い、みるみるうちに海底からいろいろなものを引き上げて行く。
支援が入るのを待たず、自分たちで先に動き始めていたのです。
2011年8月。5ヶ月の避難所生活が終わり、みんなが完成した仮設住宅に移っていきます。体育館で、お世話になりましたの挨拶をした際に、末永さんが言いました。
「冬までには船が治るよ。まあ見ててよ」
末永さんの漁船、辨天丸は津波で陸に打ち上げられ、船底に大きな穴があき、港の片隅に保管されていました。
それから2年半。
辨天丸は、きれいに修復されてまた海に浮かび、地盤沈下で水没してしまった港は、70cm嵩上げされました。ある漁師さんは、雄勝の漁業は9割方は復活したんじゃないかと言います。
そして、末永さんは、新しい会社、末永九兵衛商店株式会社を立ち上げ、2014年の操業開始に向け、その準備に奔走しています。
「津波にやられぱなしじゃ、おもしろくねえからな」
末永九久兵衛商店株式会社は農林水産省から6次産業の認定を受けました。
震災前は、1次産業である銀鮭やホタテの養殖。しかしこれからはそれに加えて、2次産業である鮭トバやホタテ貝柱等の加工品の製造、3次産業であるスーパーや百貨店への卸売りまで、すべてを自社で行っていきます。1次x2次x3次=6次産業。
震災前よりも、2歩も3歩も進んだ漁業を。
津波は、末永さんから、テレビの取材を受けるほど立派な明治時代に建てられた家や、作業場の建物を奪い去りました。船以外の、漁業に必要な用具もすべて流されてしまいました。末永さんに残ったものは、その時に着ていた服、車、辨天丸だけです。
そして末永さんは未だ6畳2間の仮設住宅で生活をしています。
しかし、ことあるごとに末永さんは言います。
「あの津波には感謝しないとな。なぜって??あれが無かったら、家の敷地の建物を壊してまで工場建ててチャレンジする気になんてなれなかった」
建武2年(1335年)に雄勝に移り住み代々続いた末永家は、陽市さんで26代目。東日本大震災は、その700年の歴史の中で、その存続に関わるほどの大きな試練を末永さんに与えました。
「代々雄勝に根付いた末永家の血筋を、俺の代で絶やすわけにはいかないからな」
雄勝町は石巻市の北東部、そこに行くための道路は2本しかなく、あとは海から行くしかありません。まさに陸の孤島。震災以前から、雄勝町は徐々に衰退をしつつありました。若い世代の外部への流出。そこにこの未曾有の大震災。街の建物はほとんどがなくなってしまいました。4000人いた人口は1000人に減りました。
そこにあることが当たり前と思われていた生活は、1日にしてなくなりました。末永家だけではなく、雄勝町全体が、存続の危機を迎えています。
しかし、末永さんは、そうした既存の概念、保守的な風習の崩壊を、新しいことをする大きなチャンスと捉えたのです。
末永さんの言葉をいくつか紹介します。
「大変ですね、って何度も言われるけど、起こってみたらなんてことない」
「あの津波はスゲーぞー。あんなの滅多に見れねーぞ。見れてラッキーだったよ」
「もう、なるようにしかなんねぇから、やるしかないっちゃ」
「1000年に一度だろ?もう生きてるうちは来ないよ」
「また来たら?逃げりゃいいんだよ。」
「被災者??あ〜!俺たち被災者だったな!」
2014年冬、新しい工場が完成し、末永さんの新しい会社、末永九兵衛商店株式会社は、操業を開始します。そして、雄勝町に新たな雇用も生み出していくでしょう。
東北のいち漁師のチャレンジ。
しかし、被災をしてしまった東北の各地では、末永さんと同じような気持ちで、震災を既存の概念をぶち壊すチャンスと捉え、全速力で前に進んでいる人々が大勢います。
まだまだ、厳しいことばかりを耳にする東北ですが、こうした動きも確実に起こっています。
プロフィール
平林克己(ひらばやし・かつみ)
カメラマン
東京生まれ。大学在学中より撮影を始め、卒業後に渡欧。オーストリアの首都ウィーンを拠点に、冷戦後のルーマニア、ブルガリア、チェコ、ポーランド、ユーゴスラヴィア等の東ヨーロッパ諸国を駆けまわる。その後パリに拠点を移し、20世紀末まで活動。 帰国後、外資系の商社勤務を経て、カメラマン再始動。2007年、Studio KTM設立。東京都内を中心に、商業分野での写真撮影に携わっている。
2011年3月の東日本大震災後、石巻、仙台を中心としたボランティア活動に尽力するかたわら、被災地に昇る太陽をテーマとした写真を撮り続け、写真集「陽(HARU)」(河出書房・2012年)を出版。 写真展は、震災1周年の2012年3月の東京を皮切りに、神戸、岡山、パリ、ブリュッセル、ベルリンと世界各地で開催されている。