小説から映画、そして舞台へ
~舞台版『幕が上がる』を観てきました
(2015年5月掲載)
平田オリザさんの小説『幕が上がる』が、2月の映画に続いて舞台作品になりました(5月1日~24日、@Zeppブルーシアター六本木)。
物語は、映画で語られなかった地区大会と県大会の間の演劇部員たちの群像を描きます。
吉岡先生の「行こうよ、全国!」の言葉に引っ張られて県大会を何とか突破した演劇部のメンバーに、突然先生の退職が知らされました。ショックを受け止めきれない部員たち。舞台はこの知らせの後、初めての練習の日から始まります。
脚本は、原作と同じ平田オリザさん。複数の人物が同時に台詞(せりふ)を話す独特のスタイルで、県大会に向けて彼女たちの『銀河鉄道の夜』ができあがっていく様子を丹念に追いかけます。
みらいぶのスタッフが、舞台を観てきました。
[舞台『幕が上がる』公式HPはこちら]
http://www.parco-play.com/web/program/makugaagaru/
かけがえのない存在の喪失を、どう引き受けるか。
すべてを背負う舞台上の高校生たち
Zeppブルーシアター六本木で上演されている舞台『幕が上がる』を観覧してきました。
映画の前売券購入者対象の先行抽選に運よく当選し、前から2列目という震えるほどの良席です。いわゆるプラチナチケットで、観たくても観られない方がたくさんいるかと思いますので、ネタバレしない程度にレポートします。
主演は、映画版と同じくももいろクローバーZ(以下、ももクロ)の5人。ももクロのライブといえば、観客も5色のグッズや自作の衣装を着込んで、とてもカラフルなことで有名です。でも、今回の客席は、普通の格好をした人たちがほとんど。観客も一緒になって「舞台女優ももクロ」の雰囲気を作ろうということなのでしょう。
この舞台は、映画『幕が上がる』の舞台化ではなく、映画では語られなかった地区大会から県大会までの間の演劇部の様子が描かれています。
つまり、演劇部にとって絶対的な拠り所であった吉岡先生が学校を去った後、どうやって、あの映画のラストシーンまでたどり着いたのか…という話です。
映画では、部長のさおり(百田夏菜子)の一人称で語られる部分も多く、「主演:百田夏菜子」と言ってもいいぐらいでしたが、この舞台版には、明確な主役はいません。あえて言うなら、主役は富士ヶ丘高校演劇部のみんなです。
カメラのフレームで切り取られた部分しか見ることができない映画とは違って、舞台では、誰かがしゃべっている横で、ほかの人物がどこを見て、何をしているのかまで観ることができます。その分、キャラクターにも厚みが出ているように感じました。
がるる(高城れに)は、ただのムードメーカーではなく、「ここは、自分が動かなれば」という時には、率先して立ち回り、部長をフォローします。明美ちゃん(佐々木彩夏)は、映画では「さお先輩、大好き」というところが強調されていますが、舞台では、さおりにダメ出しされながらも、次期部長を納得して任せられるしっかり者の描写が増えています。中西さん(有安杏果)は、映画でも難しい役どころでしたが、後述するように、また新たな設定が加わっています。そして、演劇部のお姫様ユッコ(玉井詩織)は、映画ではその看板女優っぷりを感じられるシーンが物足りなかったのですが、今回の舞台のラストは、完全に看板女優の舞台になっていて、吉岡先生でなくても「あんな女優さん、ほかにいる?」と言いたくなります。
ストーリーついては細かくは触れませんが、「物語」と言えるほど、大きな物語はありません。その中でも、ドラマティックな展開は、中西さん(有安杏果)に新たに加えられた設定。演劇強豪校から転校するきっかけになった「声が出なくなる」という問題の原因が、滑舌の悪さを気にし過ぎてということではなくなっていました。
映画の中で、中西さんは「それでも、人はひとりだよ」と、さおりに告げます。オリザさんの小説を元に、映画の脚本の喜安浩平さんがこの台詞を書いた。それに対して、「なぜ、この子は、ひとりでいることに、ここまで拘るのか」とオリザさんが踏み込んだ。その結果として、この設定が生まれる。そんな、無言の共同作業があったのかもしれない…というのは、私の想像です。
そして、この設定の追加は、小説・映画・舞台を貫くテーマとリンクすることになります。
吉岡先生の裏切り(と、あえて書きます)、賢治の『銀河鉄道の夜』、中西さんに追加された設定、そして現実のももクロが乗り越えてきた困難、すべてに共通するのは「かけがえのない存在の喪失を、どう引き受けるか」ということではないでしょうか。
映画版『幕が上がる』では、物語も、作品そのものも、吉岡先生(黒木華)や顧問のぐっち(ムロツヨシ)、滝田先生(志賀廣太郎)といった大人たちに、助けられて成り立っていました。
一方、舞台上には、大人は誰もいません。もちろん、背後には途方もなく大勢の大人がいるわけですが、最後にすべてを背負うのは舞台上の20歳前後の女の子たちです。
吉岡先生が去った後、自分たちだけで問題を解決していこうとする演劇部の姿と、それを大人の俳優抜きで演じる舞台上の彼女たちの姿もまた重なってくるのです。
大人は、子どもの面倒をみてくれる。助けてくれる。お膳立てもしてくれる。でも、子どもから大人になる、その瞬間は、若い人が自分で考え、自分で決断し、自分で歩き始めるしかないのでしょう。