みらいぶ大学特派員の猪股大輝くん(早稲田大学教育学部3年)が、自然科学部門が開催された宮城県石巻市と、日本三景で知られる松島を歩きました。
(2017年8月取材)
石巻市は、人口約14万8千人を抱える宮城県第二の市です。市域は、旧北上川下流の仙台平野(石巻平野)から女川町を除く三陸海岸南端一帯まで広がっています。近年は、全国有数の水揚げ高を誇る石巻港を中心とした漁業のほかに、日本製紙による紙パルプ業や、造船業が盛んです。
現在、石巻駅周辺の市街地は、「彩り豊かな食と萬画(マンガ)のまち」として街つくりの取り組みがなされています。
石巻は、世界三大漁場の一つ、三陸沖に近いことから多くの海産物が集まっています。石巻を訪れれば、こうした豊かで新鮮な海産物に舌鼓をうつことができます。特に、牡鹿半島で20世紀初頭以降盛んに行われてきた捕鯨産業と、それに支えられて地域に根付いた鯨食文化を背景として、市内では多様な鯨料理が現在も供されています。石巻を訪れた際はぜひ一度ご賞味あれ!
海産物を用いた料理以外にも、石巻の「食」として有名なものに、B級グルメ「石巻焼きそば」があります。石巻焼きそばは、茶色い麺が特徴です。この麺は、通常の焼きそばをもう一度水で洗い、蒸し上げることで作られます。諸説ありますが、戦後、まだ冷蔵庫が普及していなかった時代に、常温で保存の効く麺を開発しようと作られた、二度蒸し焼きそばの製麺技術が地元の業者に広まったことから、このような茶色い麺を使った焼きそばが食されていたようです。
石巻焼きそばは、こうした茶色い麺を用いて、主にだし汁をかけながら蒸し上げるように炒め、ソースなどはお好みでかけるという調理法なので、麺そのものに味が染み込み、大変独特で、かつ美味しい当地のソウルフードです。豊富な海産物と合わせて、当地に足を運んだ際にはこちらもぜひどうぞ!。
1995年、『サイボーグ009』や『仮面ライダー』などのヒット作を生み出した、宮城県出身の漫画家・石ノ森章太郎氏が当時の石巻市長と対談し、中心市街の活性化をめざして石ノ森萬画館を中心とする「マンガランド構想」を打ち出しました。そして、2001年、石巻駅から程近い中瀬地区に「石ノ森萬画館」がオープンしました。
石ノ森萬画館の館内には石ノ森ワールドを体験できる常設展示スペースや、様々な漫画家の原画などを展示する特別展示スペース、ここでしか見られない映像展示スペースなどが設けられ、マンガ好きなら一度は訪れてみたいミュージアムです。東日本大震災の際には、ミュージアムショップなどが立地する1階部分が天井近くまで浸水し、一時休館していましたが、2012年11月までに修繕工事が終了して再オープンし、現在も営業を続けています。石巻駅から萬画館への道は、「マンガロード」として、道沿いにはマンガのキャラクターの像が設置されるなど、整備されています。
日和山は、石巻市街から1kmほど行った所にある丘陵地で、山頂付近には公園が整備され、市街地を一望することができます。桜やツツジの名所としても名高く、松尾芭蕉や弟子の曽良も訪れたことで知られています。
またここは、石巻の歴史の始まりの地でもあります。鎌倉時代、源頼朝の家人として当地一帯を受領した葛西氏が、現在の日和山山頂付近に居城の石巻城を築いたことから語られ始めます。
伊達家による支配~海外にも開かれた経済・金融の中心として発展
この葛西氏の統治については多くの説がありますが、南北朝時代以降領土を広げ、奥州の有力守護として一帯を支配したことはわかっています。葛西氏は戦国末期、豊臣秀吉の小田原征伐に参加しなかったことを咎められて改易され、当主葛西晴信が死去したことから滅亡しました。
石巻一帯はその後、当地を含む現在の宮城県全域と岩手県南部を治めることとなった伊達家によって支配されることになります。伊達政宗は石巻を大規模に開発し、港町としての現在の基礎を作りました。
まず、政宗は江戸時代初期(1613年)、エスパーニャ(スペイン)との通商交渉を目指して、支倉常長を正使とする慶長遣欧使節団を石巻付近の月の浦の港から出帆させました。また、これに合わせて石巻を国際貿易港とすることを目指して整備を行い、小さな漁村に過ぎなかった石巻は海運の中心地として発展を遂げることになります。
江戸時代、石巻は北上川水運と海運の結節点として、南部藩領などからも米が当地に集積し、江戸時代全体を通じて江戸市中に流通した米の半分は石巻から送られた、と言われるまでに発展を遂げていきました。石巻は、仙台藩の経済・金融の中心地であるだけでなく、広く東北太平洋岸海運の中心的拠点として江戸時代を通じて繁栄しました。
明治以降は日本の近代化を体現
明治20年に東北本線が開通したことなどから、物流拠点としての重要性が失われ、石巻港は一時衰退していきました。明治44年から昭和21年にかけて港湾施設を整備し、500トン級の貨物船が出入りできるようになり、造船業や製鉄業などが振興されましたが、その港の役割は、沿岸漁業から遠洋漁業まで対応する漁港としての性格を強めていきました。港の役割変化と合わせて、市内では水産加工業が発展するとともに、石巻線や仙石線の開通、東北振興パルプ(現日本製紙)の工場誘致などにより市街地は近代化していきました。
高度経済成長期前夜の昭和35年、全国総合開発計画に沿って、石巻には新たに工業港が整備されることとなります。昭和40年代には、石巻港はこうした漁港と工業港という2つの役割を担うようになり、石巻駅を中心とする市街地は絶頂期を迎えることとなります。
その後、交通網の変化や郊外の宅地開発などによって徐々に街の有り様は変わっていきました。そして、2011年3月の東日本大震災。ゆたかな恵みをもたらしてきた海と北上川は、一転して自然の厳しさを見せつけました。石巻市の被害は、自治体単位で最も大きかったと言います。震災から6年半、街の人達の不断の努力によって、「復興」からさらに新たな街づくりが進められています。
松島は、天橋立、宮島と合わせて日本三景の一つに数えられています。「松島」という呼称は松島湾内に点在する大小260余りある諸島を指し、沿岸地区には多くの名所旧跡が点在しています。今回は、特にJR仙石線松島海岸駅周辺の見どころを紹介します。
江戸時代の名所ランキングで一気にブレーク?!
松島は、これまで縄文海進と地殻変動による沈下によって松島丘陵が沈水し、溺れ谷の山頂部のみが海面上に露出することで形成されたと考えられてきました。しかし、近年、縄文時代に発生した大規模な地すべりにより松島海岸の元の地形が形成されたと仮定すると、松島を地すべりによって形成される流れ山と捉えられ、そこが沈水して現在の地形が形成された、とする新説が唱えられており、その成因は正確には分かっていません。
松島には縄文の昔から多くの人が暮らしていたことが分かっています。松島沿岸は狩猟・漁撈・採集生活に適した地であり、当地でたくさんの人が生活を営んでいたことを示す遺跡(貝塚など)は、現在も大量に残されています。弥生時代には一帯の人々が集住、「ムラ」を作りました。こうしたことを示す古墳もまた、当地に数多く残っています。
松島は、平安時代から歌枕として詠まれるなど、景勝地として古来より知られていました。また、霊場としても当地は古来より有名でした。828年、現在も残る天台宗延福寺(臨済宗円福寺、瑞巌寺と名前を変え現存)が開山され、近隣の雄島にある大湊神社と合わせて信仰の拠点となっていました。
松島に現存する観光名所の大本を作ったのは、石巻と同様伊達政宗であると伝えられています。政宗は、仙台の城下町を整備しながら、瑞巌寺を造営し、瑞巌寺とは別にあった五大堂を瑞巌寺の管理下へ移すなど、現在の大本を築きました。江戸時代には、松尾芭蕉らによって当地が紹介され、観光名所としても有名となり、1714年、林春齋によって天橋立、安芸の宮島とともに景勝地として紹介され、これがもととなって日本三景の一つに数えられるようになるなど、人気を博しました。以降、現代にいたるまで松島は宮城県の主要な観光地として国内外に名前を知られています。
瑞巌寺~伊達氏の軍事施設だった?
瑞巌寺は、上述のように828年、慈覚大師円仁によって開山され、五代執権北条時頼の時代に改宗、以降荒廃し、「瑞巌寺」として伊達政宗により再興されました。瑞巌寺は造営されてから現在に至るまで、一度も火災などの被害に合わず、東日本大震災による津波も、松島の群島や参道にある杉並木などが波よけとなったことなどから、造営当時の姿を留めています。本堂に見られる荘厳美麗な襖絵などからは、正宗の高い美意識が忍ばれます。
実は、この瑞巌寺は、松島湾と合わせて軍事施設として設計されたという噂があります。一国一城令の折、政宗は第二の城として当寺を設計、造営したというものですが真偽の程はわかっていません。しかし、確かにお寺の形をみると、そうとも取れるような堅牢な作りとなっていることがわかります。こうした点にも着目しながら観光してみても良いかもしれません。
五大堂~スリル満点の「すかし橋」
五大堂は、伝承によれば、807年、奥州遠征の際、坂上田村麻呂によって建立された毘沙門堂を起源としていると言われています。その後、延福寺(現瑞巌寺)を建立した円仁が当地に仏堂を建立しました。松島の群島の上に存在する五大堂の現在の建物は、瑞巌寺よりひと足早く伊達政宗により造営された、東北地方最古の桃山建築と言われる建物です。本堂の島と本州を結ぶ「すかし橋」は、現在の五大堂が建てられた際にかけられた海が透けて見える橋で、五大堂へ行く人の気を引き締めるためにこのように設計されたと言われています。