(2016年7月取材)
広島県は大きく海岸部と山間部、東部と西部の4部に分けられ、西部には県庁所在地である広島市、東部には県内第二の人口を抱える福山市や坂の町として有名な尾道市、瀬戸内海に面した海岸部には戦艦大和を建造したことでも有名な呉市などが存在しています。
広島市は人口117万人あまりを抱える政令指定都市。市中心部や港湾部は一級河川太田川が形成するデルタ地帯に位置し、近隣の府中町にはマツダの本社があります。明治維新以降は軍都として、戦後は平和都市として発展してきました。
毛利が治める城下町として「広島」がはじまる(~江戸時代)
広島市のある地帯は、古くから安芸国の中心地として発展し、平安時代末期には平清盛が厳島神社の社殿を造営しました。戦国時代には、「3本の矢」の逸話で有名な毛利元就が一帯を征服し、1598年、毛利輝元が太田川デルタの上に築城を始め、「広島」という地名を正式に命名、毛利市の領地の中心として城下町を造営し始めました。
軍事都市となった広島(明治維新~1945年まで)
1894年に勃発した日清戦争で広島市と宇品港は兵站拠点として、多くの兵士や物資を戦地に送り出し、同年9月には広島城内に大本営が設置されます。以降1904年の日露戦争など度重なる戦争を通じて広島市には軍関係の施設が増設されるなど次第に軍事都市としての性格を強めていきました。満州事変に始まる第二次世界大戦中も重要な軍事拠点として、各地から集められた兵士の出征拠点となったり、全国からの動員学徒による兵器生産の一大拠点となったりしています。
1945年8月6日午前8時15分、広島市を、そして世界を一変させた一発の爆弾「リトルボーイ」が市中心部、島病院の上空600メートルで炸裂し街中を一瞬で地獄に変えました。夏の日差しが薄雲を通して照りつける、いつもと変わらない朝であったといいます。被爆当時の市中人口は35万、45年の8月から12月までにその内9万~12万人が亡くなり、特に爆心地から500m以内ではほぼ99%、1km以内では9割もの方が亡くなっています。2km以内の建造物のほぼ全てが炸裂とともに発生した爆風などで破壊され、倒壊した建造物に押し潰されたり、救助のため入市して残留放射能による二次被曝を受けたりして多くの人々が亡くなりました。
平和都市 “HIROSHIMA”(1945年~)
戦後、広島市は平和都市として再出発することとなります。破壊された街並みや道路網の再整備が始まり、格子状街路を基本として、市中心部に平和記念公園を抱える計画都市の建造が進められます。
1996年12月には、原爆ドームが世界遺産に登録され、”HIROSHIMA”として先の大戦の悲劇を世界に今も伝え続けています。2016年6月、バラク・オバマ大統領が現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪れ核のない世界に向けて演説を行いました。
広島の見どころ
平和記念公園
市中心部に広がる平和記念公園は、旧広島県産業奨励館(通称原爆ドーム)や橋周辺で多くの犠牲者が出た元安橋、2歳の時に被爆し10年後の小学6年生の時白血病で亡くなった佐々木禎子さんの死をきっかけに作られた原爆の子の像、全国各地から集められていた動員学徒の犠牲者を弔う動員学徒慰霊塔、亡くなった被爆者の名簿が収められた原爆死没者慰霊碑、原爆被害の実態を後世に伝える平和記念資料館などで構成されています。
広島城
1598年毛利輝元により築城された広島城は、原子爆弾により一帯が全焼、1958年に天守が再建されました。城内には前掲の大本営跡地や原爆を耐えぬいた白樺の木、再建された二の丸なども合わせて立地しています。
縮景園
縮景園は1620年、上田宗箇により作庭された日本庭園です。原爆投下の後、やけどを負った多くの被爆者が水場を求めて当地にたどり着き亡くなったことを弔った慰霊碑が存在しています。
日本酒の街、東広島市
総文祭自然科学部門が行われた広島大学東広島キャンパスが立地するある東広島市。その最寄り駅、西条駅周辺は、日本酒の街として有名です。
明治時代に、冬の仕込みに適した気候、豊富な地下水などから西条で日本酒づくりが発展、大正から昭和のはじめには「酒都西条」と呼ばれるまでになります。現在、酒造通りと呼ばれる一帯は、江戸時代、山陽道の四日市宿であった場所で、1894年中心部に山陽鉄道の西条駅が開業すると街道沿いの商屋が一斉に酒造りを始めたことに由来しています。