2019さが総文

佐賀県ってどんなところ

(2019年7月取材)

総文祭が行われた佐賀県は、九州地方の北西部に位置し、人口・面積とも九州地方最小の県です。県内の地域区分は、江戸時代、同県の地域が佐賀藩と唐津藩に分かれていた経緯から、佐賀市を中心とする南部と唐津市を中心とする北部の2地域に分けて考えることが一般的です。今回は、自然科学部門が行われた佐賀大学がある県庁所在地の佐賀市とその近郊、吉野ヶ里町と神崎市にまたがって広がる歴史の教科書でもおなじみの吉野ケ里遺跡と、佐賀市についで県内第2位の人口を擁する唐津市の3地域をご紹介します。

 

●日本の近代化を担った地 佐賀

 

佐賀市は、佐賀県の南東部に位置する佐賀県の県庁所在地です。人口は、県内人口の30%弱を占める23万人あまりで、市域は、南は有明海に面し、北は福岡県に接しています。JR佐賀駅周辺の中心市街は佐賀平野の中央部に位置し、県内の政治・経済の中心をなしています。今回、高校総文自然科学部門が行われた佐賀大学も、この中心市街からほど近い場所にあります。

 

佐賀市が位置する佐賀平野は大半が標高4m以下、かつ平均勾配は1万分の1、すなわち10kmでようやく1m下がるだけ、という極めて平坦な地形です。これは佐賀平野が全国的に見ても特異な成因により拡大を続けてきたことによります。この成因は大きく、自然的成因と人工的成因に分けられます。まず、自然的成因について。佐賀平野は海成沖積平野と呼ばれる全国的に見ても珍しい平野です。これは、佐賀平野が河川からの土砂流入のみならず、最大6mに及ぶといわれる有明海の干満作用によって、筑後川・嘉瀬川・六角川などから流入する土砂が、再び岸に送られることによって形成されたことを意味しており、現在も、南端の海岸線には、1年間に最大10mの割合で干潟が成長しています。

 

次に、人工的成因について。佐賀平野では、こうして年々成長し続ける干潟を干拓し、農業用地とする営みが古くから続けられてきました。記録によれば、この干拓事業は推古天皇の時代(607年~)から行われていると言われています。こうして、年々作り出される干潟を干拓し続けることにより、全国的に見ても稀な、極めて平坦な景観が生み出されたのです。この景観は、海岸沿いにある佐賀空港から市内を展望したときに、よりよくわかります。

 

佐賀空港から見る佐賀市内
佐賀空港から見る佐賀市内

 

佐賀市内のもう一つの景観的特徴として、水路の存在を挙げることができます。佐賀平野はその成因から、広大な面積を持つわりには、平野内に充分な集水面積を持った河川が少なく、古来より稲作に必要な用水の確保が要請されていました。また、当地は低平な地形的特徴から古来より水害にたびたび悩まされ、排水路としての役目を担う水路の建設も要請されていました。こうした要請に応えるために、クリークや江湖(えご)とよばれる水路が、平野部全体に張り巡らされ、複雑な推理システムを作り上げています。こうした水路は、佐賀市中心部にも見ることができます。

 

佐賀市内の至るところを流れる水路
佐賀市内の至るところを流れる水路

 

現在の佐賀市中心街は、中世にいたるまで、以上のような干拓によって作り出された豊かで平坦な平野に点在する一農村に過ぎませんでした。しかし、室町時代中期以降、当地を支配した龍造寺氏が現在の佐賀市周辺に拠点を据え、後継の鍋島氏が江戸時代、佐賀城を構えることで、佐賀35万石の城下町として大いに栄えることとなりました。市内には、第二次世界大戦で主だった空襲を受けなかったことから、古い街区が温存されており、現在も佐賀城門を中心として、佐賀藩城下の名残を随所に見ることができます。

 

また、佐賀藩は、薩長土肥の「肥」として、藩主鍋島直正の指導のもと、幕末維新の中心的担い手となりました。そのため、東京専門学校(現早稲田大学)の創設者にして、2度の総理大臣経験者である大隈重信を始めとして、多くの志士が、当地から、日本の近代化の担い手として育っていきました。街中には、このことを記念し、藩主の鍋島家や志士たちの活躍をたたえた数多くのモニュメントを見ることができます。

 

大隈重信・副島種臣なども卒業した藩校・弘道館の跡地にたつ記念碑
大隈重信・副島種臣なども卒業した藩校・弘道館の跡地にたつ記念碑

 

以上のような、特質を持つ佐賀の街の名所を以下に紹介します。

 

・佐賀城本丸記念館

 

一つ目に紹介するのは、佐賀市街の中心に位置する佐賀城本丸記念館です。

佐賀城のあった位置には、もともと戦国時代まで当地を支配していた龍造寺氏の居城、村中城がありました。龍造寺氏の滅亡後、江戸時代に入り佐賀藩主となった鍋島氏が、この村中城を改修・拡張する形で1611年完成させたものが、佐賀城です。しかし、建造当時の佐賀城は1726年の大火でほぼ全面的に焼失、その後二の丸が再建されるも、これも1835年の大火で焼失、現在当地に残っている重要文化財鯱の門は、この大火のあと、1838年に再建されたものです。

 

重要文化財鯱(しゃち)の門
重要文化財鯱(しゃち)の門

 

また、佐賀城址には、この鯱の門の他、復元された本丸御殿があります。

 

復元された本丸御殿
復元された本丸御殿
本丸御殿内部に再現された外御書院
本丸御殿内部に再現された外御書院

 

復元された本丸御殿は、1838年、10代藩主鍋島直正が建造した御殿を再現したものです。内部は現在、「佐賀城本丸記念館」として、幕末維新期、近代化の一翼を担った佐賀藩や日本の様子を中心に、様々な展示がなされています。

 

・佐嘉神社

 

佐嘉神社は、上述の10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島直大を祀り、1933年創建された比較的新しい神社です。境内には、本社のほかに7つの神社があり、一つの神社で8社めぐりが可能、という珍しい造りになっています。

 

佐嘉神社入口
佐嘉神社入口
境内には恵比寿様を始めとしていくつも神社がある
境内には恵比寿様を始めとしていくつも神社がある

 

また、境内やその周囲には、幕末維新・近代化を感じられるものがいくつか残されています。例えば、鳥居左手には、佐賀藩が日本で初めて製造した150ポンドカノン砲の復元模型が展示されています。

 

復元された150ポンドカノン砲
復元された150ポンドカノン砲

 

このポンドカノン砲は、佐賀藩が日本で初めて築造した実用反射炉で造られたものです。幕末期において、日本の近代化の必要性に気づき、いち早く技術導入を推し進めた佐賀藩主鍋島直正の功績をたたえ、当地に展示されています。

 

・大隈重信記念館

 

大隈重信は1838年、佐賀城にほど近い場所で生まれました。大隈は、藩内の藩校「弘道館」や佐賀藩「蘭学寮」などに学び、教頭として赴任した佐賀藩校英学塾「致遠館」において、指導を行う傍ら英学に触れ、西洋近代の思想を看取しました。

 

大隈はその後、幕末維新期から明治期にかけ政界で活躍を続け、日本近代史の一大人物となりました。また、明治14年の政変で在野に下った後は、東京専門学校(後の早稲田大学・1882年)の建学や、日本女子大学校(後の日本女子大学・1901年)の創設に尽力するなど教育活動にも力を尽くました。

 

現在、佐賀城にほど近い場所にある大隈重信の生家は、隣接する「大隈重信記念館」とともに一般に公開されています。

 

左手が大隈重信記念館。右手が大隈侯像と大隈の生家
左手が大隈重信記念館。右手が大隈侯像と大隈の生家

 

・シシリアンライス

 

佐賀市内は、稀有な観光地であると同時に、たくさんのグルメに溢れた美食の地でもあります。市内では、全国的なブランドとして知られる佐賀牛はもとより、県内各地から集まる様々な美食を堪能することができます。こうしたグルメの中で、特色あるものとして有名なのがシシリアンライスではないでしょうか。昭和50年頃、佐賀市内の喫茶店のまかない飯が発祥と言われるシシリアンライスは、熱々の御飯の上に生野菜や炒めたお肉、玉ねぎがのり、その上にマヨネーズがかかったなんとも特徴的な一皿です。

 

佐賀名物のB級グルメ「シシリアンライス」
佐賀名物のB級グルメ「シシリアンライス」

 

佐賀市内では、多くの喫茶店で創意工夫を凝らしたシシリアンライスを食べることができます。佐賀発のご当地グルメとして有名な一品、ぜひご賞味あれ!

 

 

●まるで古代にタイムスリップ 吉野ヶ里遺跡

 

JR佐賀駅から電車で10分、行政区分としては佐賀市に隣接する神埼市と、更にその隣の吉野ヶ里町の間に、歴史の教科書にも必ず出てくる旧跡「吉野ケ里遺跡」があります。

 

吉野ケ里遺跡は、弥生時代の遺跡としては国内最大で、主に1986年頃から本格的に発掘調査が始まりました。吉野ヶ里遺跡の広がる丘陵地は、現在の海岸線から20km以上奥まった場所にありますが、温暖な気候であった弥生時代には、この丘陵地のすぐ近くに海岸線がありました。当地からは、旧石器時代の遺物も出土しており、古くから人々が暮らしていたことがわかっています。しかし、当地からの出土品のうち、最も歴史的価値の高いものは弥生時代のものでしょう。当地からは、弥生時代700年間(紀元前5世紀~紀元後3世紀)に渡る数多くの遺跡・遺物が発掘されており、弥生時代を通して、人々の暮らしがどのように変化していったのか、詳細に知ることができます。

 

現在、当地は「吉野ケ里歴史公園」として整備され、104ヘクタールの広大な土地に、弥生時代後期(紀元3世紀頃)の建造物80棟以上が復元されているほか、弥生時代の森に近い植生を再現した古代植物の森などがあります。今回はそんな吉野ヶ里遺跡に再現された建造物のいくつかを紹介したいと思います。

 

吉野ヶ里遺跡に再現された弥生時代の集落跡
吉野ヶ里遺跡に再現された弥生時代の集落跡

 

まず、紹介するのは下の写真、環濠と物見櫓の復元です。

 

復元された環濠と物見櫓
復元された環濠と物見櫓

 

弥生時代は、稲作の普及とともに人口が増大し、小規模なムラが大規模なクニへと発展した時代として知られています。クニの内部には巫女を頂点とするヒエラルキーが構築されるとともに、他地域のクニとの間の戦争も発生するようになっていました。こうした時代状況を反映する形で、集落内部の統治施設を取り囲むように防御用の環濠が張り巡らされ、見張りのための物見櫓が設置されるようになります。公園内の至るところに復元された以上のような建造物からは、弥生時代に発生したこうした歴史的変化の一端を感じることができます。

 

北内郭内の祭殿
北内郭内の祭殿

 

吉野ヶ里遺跡の中には、2箇所、統治の中心地であったと見られる場所が見つかっています。そのうち北側の建造物群を北内郭、南側のものを南内郭と言います。両者とも前述のような環濠と柵に囲まれ、物見櫓が建築されるなど特別な空間として設計されていました。特に、北内郭からは、古代の祭殿跡と思しき巨大な建築物の遺構が見つかっていることから、北内郭がまつりごとの中心であり、南内郭は統治者の居住地だったのではないかと考えられています。

 

上の写真は、こうした2箇所の中心地のうち、北内郭に復元された祭殿を写したものです。祭殿では田植えや稲刈りの日取りなど、国政の重大な事項が巫女の聞いたお告げに従って決定されていました。祭殿は3層構造になっており、2層目はクニの有力者が集まり協議する場、3層目は、巫女が祖先に祈りを捧げるとともに、神からのお告げを聞く場でした。

 

クニの重要事項を決定する指導者たち
クニの重要事項を決定する指導者たち

 

北内郭には、ごく限られた指導者のみが立ち入りを許されていたと考えられています。そんな北内郭には祭殿の他、巫女が暮らした高床住居などが復元されています。巫女はこの住居内に常に暮らしており、ほぼ人前には姿を表さず、重大な決定に際して神のお告げを聞き、祭殿内で一部の指導者たちに向けてお告げの内容を語るという生活をしていたようです。

 

最後に紹介するのは、歴代の王の墓と考えられている北墳丘墓の復元です。当地は、上述した北内郭の更に北側に位置し、墓の内部からは14基の甕棺(かめかん)や埋葬品などが見つかっています。北墳丘墓の一帯からは、大量の墓跡が見つかっており、北内郭からほど近いこの場所は、祖霊をお祀りする場として極めて重要な位置づけにあったと考えられます。

 

発掘された甕棺などがそのまま展示されている北墳丘墓
発掘された甕棺などがそのまま展示されている北墳丘墓

 

これら以外にも、吉野ヶ里遺跡内では、様々な復元建造物を中心として多くの体験をすることができます。佐賀市内で触れた「近代」とは異なる、我々の生活の基礎が立ち上がった古代の文化に思いをはせる場として、吉野ヶ里遺跡は極めて興味深い場所であると言えるでしょう。

 

 

●もうひとつの城下町 唐津

 

唐津市は、佐賀県の北部、玄界灘に面しており、県内第2位の11万8千人あまりの人口を有しています。

 

唐津城天守から望む唐津市内
唐津城天守から望む唐津市内

 

唐津市の一帯は、江戸期には唐津藩として前述の佐賀藩とは異なる藩領にありました。唐津藩の藩主は江戸時代を通じて度々変わっていますが、1817年、当地に封入された小笠原氏は譜代であったため、幕末維新では幕軍側について戦いました。この結果、佐賀藩とは異なる形で明治期を迎えた唐津の街では、佐賀藩で見られるものとは違った、もう一つの形の近代化の形をみることができます。それは、大隈重信などを始めとして政界に多くの有力者を送り出し近代化を主体的に担った佐賀藩とは対称的に、地元の名士や産業家が西洋文明を摂取する形で進められた近代化でした。今回は、こうした歴史をもつ唐津市の見どころをいくつか紹介します。

 

・唐津城

 

唐津駅から車で10分、玄界灘に面した岬に観光名所として1966年、建築された唐津城天守があります。

 

唐津城址に建てられた模造天守
唐津城址に建てられた模造天守

 

唐津城の一帯にはもともと天守台・二の丸・三の丸などがあり、藩政の中心地として機能していました。1871年(明治4年)の廃藩置県の際に同城は廃城となり、建造物が払い下げられた後は、しばらく舞鶴公園として公園用地となっていました。唐津城に天守が存在したという記録はありませんが、地域の観光施設として1966年、同地に5層5階の模擬天守が建築され、合わせて跡が見つかっていた門や櫓などが復元されました。

 

唐津城天守の内部には、唐津藩や唐津市の歴史がまとめられ展示されています。また、天守の最上階からは唐津市一帯を望むことができます。

 

唐津城から望む虹ノ松原
唐津城から望む虹ノ松原

 

この唐津城天守から玄界灘の海岸線に目を移すと、日本三大松原の一つ、唐津の「虹ノ松原」を望むことができます。この松原は、17世紀始め、当地を支配していた唐津藩藩主寺沢広高が新田開発の一環として、玄界灘沿いの防風林・防砂林として植樹を行い、作られたものです。以降、歴代の藩主や統治者が精力的に整備を行い、現在も、全国的に稀な規模の松原が広がっています。

 

・旧唐津銀行

 

唐津駅から徒歩10分、唐津市の中心街に旧唐津銀行があります。

 

旧唐津銀行庁舎
旧唐津銀行庁舎

 

レンガ造りの同庁舎の設計を監修したのが、当地を代表する文化人辰野金吾でした。辰野は東京駅駅舎の設計を行った人物として知られ、日本に西洋近代建築の技法を持ち込んだ第一人者です。辰野は1854年唐津城下の武士の家庭に生まれ、藩の英語学校「耐恒寮」で高橋是清に学びました。明治維新の後、1873年(明治6年)に19歳で工部省工学寮(後の東京大学建築学科)に入学、英国人建築家のジョサイア・コンドルに教えを受け、首席で卒業しました。辰野はその後、25歳のときにロンドン大学へ留学、帰国後は日本の近代建築学の中心的人物として様々な近代洋風建築にたずさわったり、後進の育成に取り組んだりしました。今回紹介する旧唐津銀行を実際に設計したのは、辰野の弟子にあたる田中実でした。

 

再現されたカウンター
再現されたカウンター

 

1912年(明治45年)に落成した庁舎は、当初は唐津銀行の本店として、様々な他行との合併を経た後は佐賀銀行唐津支店として1997年まで実際に利用されていました。外観・内装とも壮麗な洋風建築であり、唐津の近代化を象徴する建築物であったと言えます。

 

1997年の営業終了後、唐津市に寄贈された庁舎は、保存修理・耐震工事などを経て、現在は「辰野金吾記念館」として整備・公開されています。内部では、実際に使用されていたカウンターや貴賓室、螺旋階段などを見学できる他、辰野金吾の業績などがまとめて展示されており、郷土の偉人としての辰野の足跡を体験することができます。

 

・旧高取邸

 

唐津城から1kmほど海岸沿いを歩いたところに、唐津の近代化を象徴するもう一つの建築物、国の重要文化財にも指定されている旧高取邸があります。

 

旧高取邸は、杵島炭鉱の炭鉱主であり「肥前の炭鉱王」と呼ばれた高取伊好の邸宅として、1904年(明治37年)に建築されました。2300坪と言われる広大な敷地には、大きく2棟の建物がたっており、高取家の豪勢な暮らしぶりが忍ばれます。

 

旧高取邸の最大の特徴は、1つの邸宅内に和風建築と洋風建築の両要素が同居している点にあります。この特徴は、建物の外観から明瞭にわかります。

 

洋風の暖炉と和風の門構えが同居した建物の外観
洋風の暖炉と和風の門構えが同居した建物の外観

 

写真からもわかるように、向って右手、大広間棟の門構えが和風である一方、それに接続する形で左手にはレンガ造りの洋風建築と暖炉の煙突が見えています。こうした和洋同居の建築スタイルは、建築当時の文化的様式を反映したものであったと言えるでしょう。

 

また、旧高取邸は、和洋建築が同居している以外にも、内部に多くの機能を持った多数の部屋を持っている点も特徴です。具体的には、内部に、和風の生活空間、洋間のほか、茶室や能舞台(!)などが備えられています。広大な邸宅の各所には、趣向を凝らした装飾が施されており、特異な構造と合わせて明治文化の最先端を感じることができます。

 

・からつバーガー

 

最後に紹介するのが、唐津のグルメ情報です。唐津市はブランド牛として有名な佐賀牛の主要な産地であるほか、玄界灘でとれるイカは絶品として全国的に有名です。しかし、こうした様々な美食に溢れた唐津市内で、あえて、特徴あるグルメを挙げるとすれば、市内のいくつかの場所で食べることが出来る「からつバーガー」があります。

 

からつバーガーはもともと、佐世保の米軍基地の味を再現したいと考えた初代オーナーが開発した商品で、その歴史は50年以上とも言われています。このような経緯で作られたからつバーガーは、また、現在全国に広がるご当地バーガーの元祖であるとも言われています。

 

からつバーガーは、外がパリパリ、中はふわっとしたバンズにレタス、ハム、チーズ、たまご、パテなどが入っており、デミグラスソースで味が整えられた逸品です。特別豪華な食材が入っているわけではありませんが、各具材の味が調和し、たいへん美味しいハンバーガーに仕上がっています。

 

全国初のご当地バーガー、「からつバーガー」
全国初のご当地バーガー、「からつバーガー」

 

今回紹介した場所以外にも、佐賀県は様々な魅力的な場所に溢れています。ぜひ一度訪問し、それぞれの街の持つ雰囲気を感じ取ってみてください。

 

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