(2018年8月取材)
今回信州総文祭が行われた長野県は、県の大半を山岳地帯が占めており、山地と山地の間に形成された盆地に人口が集中しています。この記事で紹介する茅野市と松本市もそれぞれ諏訪盆地、松本盆地に位置する長野県の中核都市です。
茅野市は、諏訪盆地の中央に位置し、本州を貫く中央構造線と糸魚川静岡構造線が食い違いながら交差する地点にあります。茅野は現在、八ヶ岳登山の玄関口として広く知られていますが、縄文時代には、その八ヶ岳か産出する豊富な黒曜石や豊かな伏流水などの資源を背景として広く縄文文化が栄えていました。
また、古代から中世にかけては諏訪大社の上社前宮が茅野に館を構えたり、鎌倉街道が通じたりするなど、諏訪地域の政治・経済・交通・文化の中心地として発展しました。近代以降、茅野は甲州街道沿いの宿場町として発展し、明治の廃藩置県などを経て自治行政の基礎が確立。昭和30年(1955年)の1町8村の合併で茅野町が誕生し、昭和33年(1958年)に市制が施行され現在に至ります。
日本最大の縄文遺跡群
茅野市内には、国宝「縄文のビーナス」を出土したことで有名な棚畑遺跡をはじめ大小多数の縄文遺跡が残されています。
現在、こうした遺跡群のうち、尖石遺跡の近くに茅野市尖石縄文考古館が建てられ、茅野市周辺の遺跡で出土した土偶や土器、復元された縄文時代の住居などを観覧したり、縄文土器の製作体験などをしたりすることができます。今回はそんな尖石考古館の展示から一部の展示内容を紹介します。
(1)国宝「縄文のビーナス」
尖石考古館に展示されている展示品のうち、最も有名なものは「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶でしょう。取材日(2018年8月7日)には、ちょうど東京国立博物館で開催されていた「縄文展」開催のため複製品のみの展示でしたが、普段はこの場所に実物が展示されています。
縄文のビーナスの特徴は、なんといってもその特徴的な造形です。妊娠した女性を象ったとされる立像には、頭部の文様(帽子とも髪型とも言われています)、耳に開けられたイヤリングをつけた思われる穴、八ヶ岳山麓の縄文時代中期土偶に特有な顔立ちなど、多くの興味深い点があります。縄文のビーナスはその完全な形、当時の精神文化のための貴重な学術資料であることなどから平成7年(1995年)、縄文遺跡から出土したもののなかで初めて国宝認定を受けました。
(2)実は種類がたくさん?! 縄文土器いろいろ
一口に「縄文土器」といってもたくさん種類があることをみなさんご存知でしょうか?尖石考古館の展示室には周辺で出土した土器・土偶がテーマごと、時代ごとに並べられ、長い縄文時代の文化の息吹を存分に感じ取ることができるようになっています。
例えば、ここでは縄文時代に最も広く用いられた深鉢土器の変遷について見てみましょう。
深鉢土器は煮炊きや貯蔵などに日常的に用いられたタイプの土器で、縄文時代を通して、時代や場所に関係なく広く用いられました。写真からも分かる通り、前期には比較的質素だった形・模様が中期には複雑に変化し、晩期には弥生土器のような薄く簡素なものに変化していることがわかります。こうした実用的な深鉢土器以外にも、祭り道具、土偶、装飾品など様々な出土品がわかりやすくまとめられ、展示してあります。
(3)復元された縄文住居
尖石考古館の裏手にある与助尾根遺跡には、縄文時代中期の竪穴式住居が全部で6棟復元して展示されています。いくつかの住居には実際に入ることができ、住居内の雰囲気を体験できます。また、あえて手を加えずに住居がどのように朽ちていくかを実験している建物もあり、ここでしかできない体験をすることができます。
我が国最古の神社の1つ、諏訪大社
諏訪大社の創建年代はあまりにも古く、日本最古の歴史書『古事記』にも記載があるほどですが、正確な年代はわかっていません。日本最古の神社の1つであることは確かであるようです。当社に祀られている神様は古くから軍神として崇められ、坂上田村麻呂が戦勝祈願を行ったり、源頼朝が神馬を奉納したりした、などの記録が残っています。
諏訪大社は諏訪湖を挟んで二社四宮に分かれており、このうち茅野市内にあるのが諏訪祭祀発祥の地と言われる上社前宮、前宮から2kmほど諏訪市側に入ったところにあるのが上社本宮です。今回は、そんな上社の二宮を紹介します。
(1)上社本宮(かみしゃほんみや)
上社本宮は諏訪盆地の西南端に位置し、社殿6棟が国の重要文化財に指定されるほか、社叢(しゃそう・境内を取り囲む林)の落葉樹からなる自然林は、長野県の天然記念物に指定されています。
上社本宮の見どころとしてまず挙げられるのは、一帯に広がる数々の歴史建築でしょう。1582年、織田信長の放火によってそれ以前の社殿の多くは焼失してしまいましたが、徳川家康の造営寄進などによって再興され増改築が繰り返されながら現在に至っています。
境内の建築様式は本殿を持たない「諏訪造り」という独特の様式で建造されており、社殿の多くが横並びに配置されるなど、私たちが普段お参りする寺社仏閣のイメージでお参りしようとすると、相当戸惑うことになります。建物の多くは、豪華絢爛というよりは質実剛健な作りのものが多く、それが逆に建造物の歴史を際立たせています。また、建造物以外にも境内を取り囲む木々の大きさや形も見どころ満載です。長野県の天然記念物でもある社叢は中部地方唯一の原生林と言われ、圧倒的な迫力を感じることができます。
(2)上社前宮(かみしゃまえみや)
本宮から南東に2kmほど歩いたところに、諏訪地域の信仰発祥の地と呼ばれる上社前宮があります。前宮には、現人神として御神体と同視された大祝の居館が設けられていたことから、近世までは諏訪地域一帯の政治の中心地でした。前宮本殿の横には、中世以来の鎌倉街道の跡がわずかに残されています。
前宮の見どころはなんといっても、その自然と一体化した独特な社域の佇まいにあります。本殿は、鳥居をくぐってから200mばかり畑の中の道を登った先の御柱に囲まれた森に鎮座しています。本殿のほとりには水眼(すいが)の清流と呼ばれる小川が流れ、一帯は穏やかでありながら神聖な雰囲気に包まれています。自然と真に調和した、古くから続く伝統的な信仰の息吹を感じられるこの場所は、全国数多ある神社の中でも私の一番のお気に入りの場所です。
(3)御柱
ところで、みなさんの中には、諏訪大社の「御柱祭(おんばしらまつり)」というとピンと来る人も多いのではないでしょうか?日本三大奇祭の1つとして知られる御柱祭は7年に1度行われる大祭で、山の中から選ばれたモミの巨木を、山から里に曳きだし、諏訪大社各社の境内四方に立てる一連の行事のことを言います。
実は、この御柱、どんな起源で建てられるようになったのか、詳しいことはわかっていません。今は存在していない神殿の建て替えの際の柱として用いるためとか、神社の結界を標示するためといった様々な説が提示されていますが起源は謎のままです。
茅野市の現在
茅野市は現在、人口5万5千人あまり。市内には、広大な土地や都会へのアクセスの良さを生かして精密工業を営む企業が多数立地しています。また、パセリやセロリといった高原野菜、日照時間の長い八ヶ岳西麓の標高1000m地帯で作られる蕎麦、冬の寒さと乾燥、アク抜きに適した軟水の地下水などを用いた角寒天などの生産地としても知られています。
また、市内には、今回総文祭が実施された「公立」諏訪東京理科大学があることも忘れてはなりません。2018年4月から諏訪広域連合(茅野市・諏訪市・岡谷市・下諏訪町・富士見町・原町)によって公立大学化された同大学は、地域密着型の公立工学系大学として再出発を切りました。地域産業を支える教育・研究の中心地として同大学の重要性はますます高まっています。
松本市は、長野市についで長野県内第二の経済規模を誇る地方都市です。第二次世界大戦の戦災を免れたことから、市内には数多くの歴史的建造物が残され、近世から近代にかけての日本の城下町の歴史を肌で感じ取ることができます。今回はそんな松本市の歴史的建造物から、近世を代表して松本城の天守閣、近代を代表して旧開智学校校舎を紹介します。
国宝-松本城天守
松本城は戦国時代に建てられた深志城を起源として、戦国時代、江戸時代を通じて地域統治の拠点となった平城です。戦国時代末期から江戸時代初期にかけて造られた天守は、現存する五重六階の天守としては日本最古のものとして、国宝に指定されています。
松本城天守の外観上の最大の特徴は、戦闘のために戦国末期に造られた大天守などの施設と、戦闘用の備えをほとんど持たない江戸時代に造られた月見櫓などの施設が併存している点にあります。写真中央の白黒のモノトーンで締められた部分が大天守など戦闘用の設備、写真右の赤い欄干(らんかん)が配された部分が月見櫓(やぐら)など平和な時代の設備です。こうした性格の違う天守・櫓が複合された天守群は、日本唯一のものです。
松本城のこのような特徴は城郭の内部に入っても感じることができます。大天守内部には石落や鉄砲狭間など戦闘用の設備が数多く存在し、実際に城に備えられていた武具の数々を見学できます。また、内部は、戦闘用の設備だけあって薄暗く閉鎖的な印象があります。一方、月見櫓に入ると、大天守とは一転して開放的な雰囲気に驚かされます。こうした変化は、松本城を取り巻く時代の変遷を感じさせてくれます。
日本近代学校のあけぼの-旧開智学校
松本市内のもう一つの観光の目玉が旧開智学校です。開智学校は現在地から1kmほど離れた女鳥羽川のほとりに、明治6年(1873年)に開校された近代日本最初期の小学校の1つで、現存する校舎は明治9年(1876年)に建てられ、昭和38年(1963年)に現在地に移築されたものです。校舎の工事費の実に7割が松本町民の寄付によってまかなわれました。この費用は当時の権令(県知事)の月給の550倍ともいわれ、近代日本の教育にかける地元住民の熱い思いが伝わってきます。
旧開智学校校舎外観の特徴は、その「擬洋風」という独特の建築様式にあるといっていいでしょう。校舎は一見、窓が縦長であったり、バルコニーが設けられたり、ガラスがふんだんに用いられたりと洋風建築の印象を受けます。しかし、細かく見てみると屋根には瓦が用いられるなど和風建築の特徴も持っていることに気づきます。こうした建築様式は明治初期に独特のもので、西洋から輸入された建築文化と現場の大工たちがもつ伝統的な日本文化が折衷されることで生み出されたものでした。
では、そもそもなぜ「小学校」を始めとした様々な建物が、一見ちぐはぐな洋風建築として建てられる必要があったのでしょうか。それは文明開化という独特な時代背景を勘案する必要があります。明治維新以降、日本は西洋風の近代国家への転換を図り、政治・経済・文化を西洋化することが、江戸までと明治以降を分ける一個の画期的な特徴として強調されていました。
「小学校」はまさにそうした政治・経済・文化の西洋化を支える人材を効率的に育成する、西洋化(近代化)の根幹に位置する特徴的な制度であったのです。そのため、小学校校舎の外観もまた、そうした位置づけを明確に示し、「新しい時代」の到来をアピールするような、近代以前の日本では見られない「洋風」の構えである必要がありました。
しかし、政体が変わったからといって、文化様式が一気に変化するわけではありません。西洋文化の伝統の線上にはない当時の現場の大工や職人たちは、「西洋化」という時代の要請を背負いながら、それを独自に解釈することで、擬洋風建築という和洋折衷のオリジナルな文化を生み出していったのでした。明治中期以降、こうした擬洋風建築は西洋の稚拙な模倣として断罪され、より本格的な洋風建築にとって変わられるようになります。しかし、最近では文化の激動期に生まれたその独創性を再評価する向きが主流となりつつあります。日本の「近世」と西洋風の「近代」が交錯する点で生まれた、新しい文化の形を旧開智学校校舎の外観からは感じ取ることができるのです。
校舎を入ってすぐの場所には明治当時の教室風景が再現されています。長方形の教室の前面には黒板と教卓が設置され、四角い机と椅子が規則正しく並んでいます。教室右側には大正期に寄贈されたアップライトピアノが置かれ、その横には教材として用いられた単語表の複製が立てかけられています。こうした教室風景は、我々が普段、「学校」で見慣れたものでありますが、こうした教室の風景それ自体が「近代化」を象徴したものであったことを忘れてはなりません。例えば、子どもたちが一斉に黒板や教具を見ながら、テーブルや椅子で教師1人の話を聞きながら学ぶスタイルは、「一斉教授」という近代学校に独特な様式だったからです。
旧開智学校校舎の内部には再現された教室の風景のほかに、赤じゅうたんが敷かれてステンドグラスが配された講堂を見学できたり、あるいは校舎内部には時代ごとに用いられていた教材・教具などが解説とともに展示されたりしていて、近代日本の学校教育史を概観することができるようになっています。旧開智学校校舎は、我々が「普通」に通っていた「学校」がどんな場所であったか、その歴史的背景を感じ取るには好適な場所であると言えるでしょう。
旧開智学校校舎は昭和38年まで増改築を繰り返しながら使用されていました。使用終了後現在の地に移築され、校舎の隣には「松本市立開智小学校」の現校舎が建設されています。旧開智学校校舎の意匠を引き継ぎながら現代風にアレンジされた現校舎と旧校舎を対比的に見比べると、近代日本における学校の今と昔を印象的に感じることができます。