学習を楽しく
石原 千秋(早稲田大学教育学部国語国文学科教授)
(2013年3月掲載)
なぜ「気持ち」ばかり問われるのか
小説を題材とした問題では、登場人物の「気持ち」に設問が集中する傾向が顕著にある。それは「他者」を理解する能力を測定したいからだろう。ここで求められているのは、おそらく「他人の気持ちがわかる優しさ」とか、「他人に共鳴や共感できる協調性のある人間」である。しかし、「他人の気持ちがわかる」という事態には、私たちが感じているある種の恐怖が潜んでいるのではないだろうか。
私たちの内面には自分では言葉にできない「何か」があるが、その得体の知れない「何か」が自己を自己たらしめている。しかし、その「何か」は自分にとっても理解不可能なものだから、「不気味なもの」(フロイト)としか認識されない。私たちは自己の内面に「不気味なもの」を抱えているわけだ。だから、人が自己の内面をそのまま表現すれば、それは「不気味なもの」を表現してしまったことになるのだ。
もちろん、ふだん私たちはこのことには気づかない。正確に言えば、気づかないように処理している。現実社会に「不気味なもの」があふれかえっていたのでは、落ち着いて生活できないからである。それが、内面に言葉を与えることだ。それは、「不気味なもの」の力をそぎ落とし、私たちの現実社会に招き入れることである。「不気味なもの」をそのまま「不気味なもの」として受け入れたのでは身が持たないし、社会が成立しない。日常生活を安寧に送るためには、「不気味なもの」を感じ取る感性を何とかして鈍らせなければならないのである。
入試国語で登場人物の「気持ち」ばかりが問われる背景には、受験生がこうして自分の感性を鈍らせる仕掛けを備えているかどうかを問う思想が働いているのだ。気持ちを言葉にすることは、「不気味なもの」に対する感性を鈍らせることだからだ。それが「ふつうの人間」だと広く考えられている。実は「気持ち」を問うことは、このようにして大人の世界に参入するためのイニシエーションなのである。その結果、子供は感性を鈍らせた立派な大人になる。
「不気味」な犯罪
入試国語ではどうやって「気持ち」に言葉を与えるのだろうか。この点については、ふつうでは理解できないような「不気味」な犯罪が起きたときのことを考えてみればいい。
犯人が捕まって、裁判が始まったとしよう。裁判では、犯罪がどのような動機で行われたのかをしつこく追究する。今後の犯罪の防止につながるという建前のもとにである。しかし、それは本当は「不気味なもの」に言葉を与える儀式なのではないだろうか。どうしても動機が言葉にできなければ、「理由なき犯罪」という言葉を与えて分かったようなふりをする。「不気味なもの」を去勢する(力をそぎ落とす)のだ。そうまでして「不気味なもの」を社会に回収する(社会にふつうに通用する言葉を与えて、位置づける)のが、近代社会を生きていくための掟なのだ。
犯罪の動機(原因)は、現実社会とはまったく無関係な完全に内的なものではないと考えられているから、裁判ではその動機を探るのである。仮に動機が完全に内的なものだとしたら、それには狂気という言葉を与えることになるだろう。そこで、過去の生い立ちに遡ってまで、動機を探ろうとする。つまり、動機は個人の外からやってくると考えられているのだ。ここには、原因(犯人に関わる現実の社会で起きた出来事=動機)と結果(犯罪)という因果関係がある。こうして、動機と社会とが手を組むことになる。人々は、現実社会に原因があり、だから彼または彼女が犯罪に及んだのだと理解する。犯罪が社会に回収された瞬間だ。
実は、入試国語こそがこのような構造を備えているのである。言ってみれば、「気持ち」を問う入試国語とは「不気味なもの」を去勢する能力を持った「ふつうの人間」を選り分ける装置なのである。入試国語が受験生を社会化させる仕掛けだとすれば、それはこういう意味においてである。
社会化する装置としてのセンター試験
ここで、2008年の1月に実施され、まさに「気持ち」を問うことに主眼が置かれた大学入試センター試験を見ておこう。そこでは、何が行われているのだろうか。
問題文は夏目漱石の小説『彼岸過迄』の「須永の話」から採られた。「須永の話」とは、須永(=僕)という内向的な青年の独白から構成されており、そもそもその全体が「気持ち」の表出なのである。全体を論じる必要はないので、特徴的な設問を一つだけ見ておこう。それは傍線部Cについて問うた問4である。
ここは、須永が従姉妹の千代子たちと鎌倉に遊んだ時のことである。文中にある「所有」という強烈な言葉は、「結婚」のことを言っている。時代を感じさせる表現である。須永の母(実は須永とは血がつながっていない)が、須永が幼いときに須永との結婚を千代子の父に申し込んでいたことが、須永と千代子との関係をこじらせる一因となっている。
僕はその時高木から受けた(ア)名状し難い不快を明らかに覚えている。そうして自分の所有でもない、また所有にする気もない千代子が原因で、この嫉妬心が燃えだしたのだと思った時、C僕はどうしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした。僕は存在の権利を失った嫉妬心を抱いて、誰にも見えない腹の中で苦悶し始めた。
この一節自体には、先に述べた原理の解説のような趣がある。下線部(ア)の「名状し難い」とは、問1で問われているように、まさに「名付けることが不可能な」状態であって、高木(千代子が連れてきた青年)から受けた「不快」が須永にとって「不気味なもの」であることをよく物語っている。しかし、そうした「不気味なもの」はすぐに「嫉妬心」という見慣れた言葉で、須永自身に理解されている。「名付けることが不可能な」内面が、「嫉妬」という見慣れた言葉で社会に回収されたわけだ。
内面と出来事
問4は、こういう設問だった。
問4 傍線部C「僕はどうしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした」とあるが、なぜ「僕」はこのような気持ちになったのか。その理由として最も適当なものを、次の(1)~(5)のうちから一つ選べ。
※WEBでは、「○と数字」を組み合わせを「( )と数字」で表記しております。
先に述べたように、「気持ち」とは現実社会で起きた出来事を「原因」とする「結果」だった。「これこれこういう出来事が起きたから、こういう気持ちになりました」というわけだ。したがって、選択肢に書かれる文も同じ構造を持つことになる。つまり、出来事と気持ちのセットになるということだ。そこで、受験生を引っかけるのには二つのポイントができる。一つは、出来事の整理に誤りを仕掛けておくこと。もう一つは、的外れな「気持ち」を書いておくこと。
的外れな「気持ち」を書いておく選択肢の作り方がそのまま設問になったのが問2だ。これは極端に言えば、選択肢の文末「羨ましく思っている」、「不快に思っている」、「うっとうしく思っている」、「憎らしく思っている」、「面白くなく思っている」だけ読めばいい。少しだけ迷うのは本文にその言葉が出て来る「羨ましく思っている」と「憎らしく思っている」だけだ。本文にある出来事の時系列を整理すれば、須永が「憎み出した」のは傍線部Aからしばらくしてからだから、答えは(1)を選べばいい。簡単な話だ。
ここで、「気持ち」を問う記述式設問へのアドバイスを書いておこう。多くの場合、「気持ち」だけ書いたのでは字数が足りない。そこで本文を整理して、「気持ち」(結果)の「原因」となる出来事だけを簡潔にまとめて、「これこれこういう出来事が起きたから、こういう気持ちになった」と解答すればいいのだ。つまり、「気持ち」を問う設問は、実は「気持ち」そのものを問うていると言うよりは、本文を因果関係に沿って整理する、整理能力を問うているのである。
この法則に従って問4の選択肢を見ていこう。繰り返すが、ポイントは本文整理能力だ。①は「千代子に高木と比較されたという思い」が本文にはないのでまちがい。(3)は「高木の存在によって初めて千代子を愛しているのではないかと考えはじめた」が本文にはないのでまちがい。(4)は「千代子を恋人として扱う高木」が本文にはないのでまちがい。(5)は「本来は恋に関わる嫉妬心」が本文にはないのでまちがい。残るのは(2)だけだ。
そう、この設問は「気持ち」を問うているように見せかけながら、実は「気持ち」はどうでもいいのだ。「他人の気持ちがわからないから小説問題は解けない」とお悩みのみなさん、その悩みはもういらない。
「気持ち」を問う思想
ここで、答えの選択肢を見ておこう。
(2)「僕」は高木の登場によって、これまでの自己認識を超えるような嫉妬心を抱いた。高木への僻みに根ざしたその感情は、恋人と意識したこともない千代子を介して生じたものであり、そうした感情を制御しない限り、自分を卑しめることになるような気がしたから。
これは本文と照らし合わせて、明らかなまちがいが書いてないから「正解」であるにすぎない。だが、大切なのは小説問題の思想である。
この選択肢の記述には、先に述べた現実社会と「気持ち」の関係が端的に現れている。言い換えれば、現実社会と「不気味なもの」との関係が端的に現れている。この選択肢は、須永が「自分を卑しめることになるような気がした」のは、これ以前に記述されているような「出来事」が「原因」としてあるという前提によって構成されている。つまり、「出来事」と須永の「気持ち」とを原因と結果の因果関係によってつなげることで、須永の「気持ち」を社会に回収しているのだ。
これは一つの思想だと言っていい。その思想とは、個人の内面にある「気持ち」と現実社会の側にある多くの「出来事」とを原因と結果の因果関係で結ぶことによって「気持ち」に言葉を与え、「気持ち」という「不気味なもの」を社会に回収する思想である。こうして、君たちは社会にとって人畜無害な人間として飼い慣らされる。これが、「気持ち」を問う設問の背景にある思想である。
石原 千秋(いしはら ちあき)
早稲田大学教育学部国語国文学科教授
1955年宮城県生まれ。近代日本文学、特に夏目漱石研究の第一人者。国語教科書や入試国語の分析をはじめとして、国語教育にも積極的にかかわっている。『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)や『大学受験のための小説講義』(同)は、受験生必読!